ブラム・ストーカーのポリフォニー
NHK「100分de名著」で今月取り上げられていたブラム・ストーカー「ドラキュラ」の最終回を観ることができました。
解説は「ケアの物語」(岩波新書)などのケア関連書で知られる小川公代さんで、著者ブラム・ストーカーのアングロ・アイリッシュとしての出自や、当時の女性のアンビバレントな自意識といった、一面的に断定することのできないアイデンティティの角度からテキストにアプローチする手法が鮮やかでした。
通常なら、ドラキュラといえば怪奇ものとして、あるいは抑圧された性的欲望といった文脈で解説されることが多い印象ですが、語りの中に埋め込まれたアイデンティティという視点であらためて考えることができました。
「ドラキュラ」はちょうど一年ほどまえに再読したときには、手紙・手記で構成された文体がかなり大時代な印象を残したものでした。しかし今回の内容を踏まえて振り返ってみると、それぞれの登場人物が異なる立場、焦り、勇気を内側に秘めているのを、ポリフォニー的に描きだしている手法がより理解できた気がします。特に、ミーナ・ハーカーの作中の「声」が次第に勇敢に成長してゆくと同時に、彼女自身の自意識が新旧織り混ざった複雑な女性像になっているというのは、あらためて再読して確認する必要を感じました。
Shadow Ticket に登場するドラキュラ
「ドラキュラ」の番組がちょうどタイムリーだったのは、10月の初旬に発売されたばかりのトマス・ピンチョンの新作 “Shadow Ticket” で、たびたび映画「魔神ドラキュラ」と、俳優ベラ・ルゴシが言及されていて、なんだかつながりを感じさせたからでもあります。
Shadow Ticket の冒頭のエピグラフは:
Supernatural, perhaps. Baloney…perhaps not."
超自然、かもしれない。しかし、でたらめではないだろう
となっていて、映画「黒猫」に登場するベラ・ルゴシの有名な台詞が採用されています。
7章では主人公ヒックスがエイプリルとの逢い引きに不承不承「魔神ドラキュラ」を見に行くシーンがありますし、ベラ・ルゴシへの言及には他にもありますし、21章でもドラキュラとヴァン・ヘルシングが言及され、そして物語は最終的にトランシルヴァニアにまで行き着きます(ヴァンパイアも!)。
「ドラキュラ」における追跡行とヒックスのそれは似通っていますし、Shadow Ticket には水中に怪しく光る不可視の U ボート(デメテル号?)も登場しますし、さまざまに照応している箇所があります。
「ドラキュラ」は、進歩を固く信じていたブラム・ストーカーによる、アンチ・ゴシック小説という側面があることも思い出されます。通常のゴシック小説ならば登場人物は個人を超える運命や神秘の介入に翻弄されて儚い最期を迎えるのが常ですが、「ドラキュラ」で男たちは鉄道に電信といったテクノロジーを駆使して伯爵を追い詰めます。
ピンチョンの世界観では、人類を救うはずだったテクノロジーが人間を縛り、操る、不可視の手のような存在として背後に城のように、パラノイアの対象としてそそり立っています。Shadow Ticket でも、登場人物たちはファシズムの台頭とともに次第に自由な意思を奪われていきます。まるでドラキュラに魅せられているかのように。
これはどういう符丁なのか、私にはまだよく分かっていません。「ドラキュラ」と「Shadow Ticket」の再読であらためて考えることにします。