ブログブームは「自己実現」ブームだったのか?
陰謀論などについて詳しい雨宮純氏の X の投稿で、かつてのブロガーブーム時代について触れているものがありました。投稿の趣旨からずれた引用になって恐縮なのですが、以下の通り。
かつてはブロガー、スピリチュアルビジネス、キラキラ起業といったもので自己実現が目指されていたのが、今は陰謀論、排外主義、選挙出馬ですからね。しかも地方選だと割に通ってしまう。「会社員はきつい/つまらないので政治家を選ぶ」コースがリアリティと希望を持ってしまっています。 https://t.co/OS5cRDO4mu
— 雨宮純 (@caffelover) October 22, 2025
カマトトぶったり上品ぶるつもりはないのですが、昔から心の底から腑に落ちていなかったので「ブロガーは自己実現を目指していた」というダイレクトな表現に妙に納得してしまいました。
この言葉にはさまざまな受け取り方が可能ですが、ここでは昔のブログブームは「ブログを書くこと」に人気があったのではなく、「ブログが自己実現への近道だった」ことに人気があったのではないか? という具合に限定的に考えてみることにします。もちろん「全てのブログが」にまで拡大解釈をするのではなく、かつての熱気の一つの要因がそうだったのではないかという程度のネタ振りです。
「自己実現」という言葉も受け取り方に幅があるので注意が必要です。文脈から言ってなにか悪いことをしているように聞こえますが、それ自体は必ずしも悪いことではありません。「ブログに人気がでるといいな」くらいのことは誰でも考えますし、それも一種の自己実現でしょう。
しかし、ここでいう「自己実現」はやはり、ブログの本質が「書くこと」であるところから少しズレた、「知名度を獲得する」「お金が儲かる」「権威になれる」といった目的と捉えるのが実際的でしょう。繰り返しになりますが、こうしたことを求めること自体が悪いわけではありません。
ズレがある、という状態が面白いと思うのです。
水平線上に希望が浮かびあがる
私が腑に落ちたのは「知名度・お金・権威」といったものと本来ならズレている「ブログを書くこと」のあいだに現実的な道筋が想像できる時代がかつてあったという部分です。ブログに埋め込んだ広告で収益がそれなりにあったり、関連したビジネスをしたりといったことが盛んだった瞬間があるのです。
同じ事を時代をずらして YouTubeに、VTuberにといった具合に変えてみてもいいでしょう。いまなら note でしょうか。
そこになにか「道筋」のようなものがリアルに感じられると、「ブログをしなければ」「YouTubeをしなければ」という熱気が生まれます。水平線上に待ち望んでいた陸地の姿を見つけるように、到達不可能にみえた「目的」に対して「手段」が目の前に輝いて見える状態。それがあの熱気の一つの理由だったのだと振り返ることができたのです。もちろん、わかってはいたのですが、今回こうした言葉にできました。
しかし、水平線上の陸地は蜃気楼であることもよくあることです。「手段」は誰にでも実践できる形で提示された時点で陳腐化しますし、そもそも「自己実現」という言葉も心の不安に後ろから強い光をあてて投じられた影という側面があります。なにが「実現」されているのかを考えているうちにふわふわとしてきますよね。
それなら、いまいちど「ブログを書くこと」に立ち戻って考えたらどうでしょう。
ブログが衰退した技術的な理由やメディアの風景はいくつも挙げることはできますし、それについては何度でも書こうと思っているのですが、私がこの話題にこだわるのは「書くこと」それ自体は今も昔も変わっていないからです。
わかりやすい「道筋」はありませんが、万古から変わらない「書くことで誰かと、世界と、つながる」という部分に希望を託すことはいまでも可能でしょうか。
今日のリンク
- Checking in on the state of Amazon’s chickenized reverse-centaurs | Pluralistic:
Amazonが契約している配送業者に対しておこなっている搾取と、アプリを通した隷従の仕組みに関する Cory Doctorow 氏の論考 - 国立公文書館への寄付のお願い:
公文書館が寄付を必要とするとは。
また明日。