「両膝を怪我したわたしの聖女」
カナリア諸島テネリフェを舞台にした、十歳の「わたし」と親友イソラの一夏の物語。
大人たちは仕事や出稼ぎで忙しく、少女たちは海岸にいくことができないので暇を持て余している。二人の日常は粗暴で猥雑なごっこ遊びや、祖母のいいつけや暴言をかいくぐったり、情報処理教室の先生の目を盗んでオンラインチャットで出会いを求めたりといった出来事で埋められている。
やがて、共依存といってもいい二人の関係に決定的な変化がやってくる…。
最初の数ページで親友のイソラが嘔吐しているシーンから始まり、全編にわたって性器や排泄物への言及、二人の生活している貧しく不潔な環境の描写が繰り返されるので、人を選ぶ作品になっている。
しかし、そうした描写は二人の思春期の性の危うさや、彼女たちがおかれている虐待の環境を浮き彫りにしておい、そこから立ち上がる物語の本筋はとてもピュアな、愛への渇望を描いている。
原題は ”Panza de Burro"「ろばのお腹」で、これは北東から吹く貿易風がカナリア諸島の上に厚く垂れ込める雲を指しているとのこと。この雲の閉塞感が、全編を重苦しく覆っている。
少女たちはこの雲の向こうへ、光の輝く海岸にたどり着けるのか。
舞台
スペイン領ではあるものの、アフリカ沖に存在するカナリア諸島テネリフェは北東から赤道方面に向かって吹く貿易風の影響下にあり、その空気が島の地形で上昇することで島の上には特徴的な雲が発生する。
島の中央には火山であるテイデ山があるものの、作中ではほとんど雲のなかにあって存在感だけが感じられるように描かれている。
主人公たちの生活圏はこのテイデ山の北東側で、急峻な坂にへばりつくように存在する集落のあたり。作中で「洞窟」と言われているのは「ビエントの洞窟」という観光地。
二人が行きたいと願っている海岸は、ここから歩いて数時間の距離にある、プラヤ・デ・サン・マルコス。砂浜ではなく、黒い礫が広がっている湾になっている。急峻な崖の地形になっていることが写真でもわかる。
食べ物
この作品では、過食と太る事への恐怖が両方描かれていて、地元の料理がところどころで登場する。
カンデラリアの聖母
象徴的に登場するカンデラリアの聖母は、カナリア諸島の守護聖人で、有色人種として描かれた聖母マリア。この聖母がイソラの守護聖人として登場していることも重要。カンデラリアとは「光」を意味している。
この聖母を祭っているヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・カンデラリア教会はテネリフェの東の海岸にある。
「わたし」の舌足らずさ
主人公の「わたし」は、「建設」を「けんしぇつ」と綴り、「ゲームボーイ」を「ゲンボーイ」、「メッセンジャー」を「メシンジェ」と捉えている。これは、「わたし」が幼いというよりも、境界知能の持ち主であることをほのめかしている可能性があると、読んでいて感じた。
そのことが明示的に作中で示されることはないものの、「わたし」の世界観はどこか断片的で、清いものと汚いもの、良いものと悪いものといった、通常なら差異として知覚されるべき刺激がバイパスされているような、奇妙な印象を与える。感覚が与える快不快の認識はあっても、それ以外の先入観がない、無垢な世界が保たれていると言ってもいい。
なにより、イソラから「わたし」が「シット(糞)」と呼ばれていることの不思議さがある。イソラが「わたし」をシットと呼ぶとき、そこに侮蔑は含まれていないようにみえるけれども、それは単に「わたし」がそれを認識できていないからなのか? わたしは「シット」と呼ばれることをどう思っているのか? そこは曖昧になっている。
ここには非常に危うい、構図上のしかけがあるように感じた。「わたし」がイソラを見つめる視線を通して物語は進行するけれども、この小説はイソラの物語ではなく、むき出しになった「わたし」の感覚的な世界体験を描き出している。
メモ
英語訳では、本作品は “Dogs of Summer” 「夏の犬たち」という題名になっている。犬たちは作中でも重要な役割をもっている。
