ウンベルト・エーコ「ヌメロ・ゼロ」の物語に隠された物語

嘘を本当にするには ―

少なくとも一見して嘘だと見破れないようにするには、一つだけ細工をすればいい。それはその嘘を「本当のことだ」と言及している別の嘘を用意しておくことです。

たとえば嘘の本を作ってそれを図書館にしのばせておく。そして何年もたってからその本が「発見」されるように、別の本でその存在に言及しておけば、情報の参照関係はオリジナルのないコピーとして一人歩きを始めます。

イタリアの記号学者で「薔薇の名前」「フーコーの振り子」「プラハの墓」などの小説で知られるウンベルト・エーコが死の一年前の2015年に刊行した最後の小説「ヌメロ・ゼロ」は、こうした足跡を消す技法を使って描かれたメディアに対する皮肉、そしてエーコ一流の疑似的な歴史推理です。

「フーコーの振り子」を踏襲したスタイル。新しい題材

本書の構成は「フーコーの振り子」とよく似ています。今回のサム・スペードは五十代のうだつの上がらないライターのコロンナ。「真実」に追いつかれた彼は死の恐怖に怯えながら、この二ヶ月に起こった出来事を回想しています。

コロンナは山師のシメイの口車に乗せられ、資産家のコンメンダトール・ヴィメルカーテがさらなる栄達の足がかりにしようとしている日刊紙「ドマーニ(明日)」の創刊準備号(0号版、ヌメロ・ゼロ)の編集に関わります。

実際にはすでに起こっている出来事についての新聞を準備号として編集するなか、あらゆる出来事をスポンサーのため、あるいは読者を煽るために歪曲する手練手管が論じられ、しだいにスタッフの一人ひとりからメディア人としての倫理観が失われていきます。

そんなある日、ミラノの裏世界を取材しているブラッガドーチョが、ムッソリーニの死にまつわる壮大な陰謀についてコロンナに打ち明け、物語は現代のイタリアにまでつながる嘘と隠蔽のもう一つの現代史へとつながってゆく。

表向き、これが「ヌメロ・ゼロ」の筋になっています。しかし巧妙に足跡を消すエーコの語りを解きほぐさなければ、作品の本当の姿は見えてきません。

強請りの二重構造の依頼

非常にややこしいのでいきなり挫折しそうになるのですが、コロンナのもとにやってくるシメイからの依頼からしてすでに胡散臭く、嘘を覆い隠した形跡がうかがえます。

そもそも「Domani紙」が誕生するきっかけは、資産家のコンメンダトール・ヴィメルカーテが成り上がるために、有力者たちが自分のスキャンダルを暴かれるのではないかと恐れをなすような新聞をつくる「ふり」をしてほしいという依頼に基づいています。

実際に日刊紙は発行されなくても、パイロット版である「ゼロ号」を12日分だけ作成して有力者たちにチラつかせて「お願いだから新聞はやめてくれ、そのかわりに上流の世界にアクセスさせてやろう」と言ってもらえれば成功という、奇妙な依頼です。

しかしもっと奇妙なのは、それを依頼されたと主張しているシメイが、主人公コロンナに提案している第二の依頼です。

スタッフたちにはDomani紙が実際には発刊されないことを伏せて編集に携わり、その一年の出来事を私に都合がいい回顧録「Domani: Ieri (明日:昨日)」という形で代筆してほしいというのです。シメイはそれをつかってヴィメルカーテを強請るという寸法です。

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図にするとこうなりますが、大事なのはコンメンダトーレは作中に一度も登場せず、シメイがその意向を伝えているだけだという点です。コンメンダトーレは実在するのか? 何のために発行されない「Domani紙」は発行され、シメイは回顧録「Domani: Ieri」を準備しているのか?

どうもここには嘘があるようにしか思えません。

明日の昨日、昨日の明日

作中の時間の流れにも、雪道を後ろ向きに歩いて足跡がある場所で消えてしまったように見せかけているような、巧妙なトリックがありそうです。

まず、Domani紙がまるで予言的なまでに鋭く、世の中の闇を暴いているように見せかけるためのトリックは、実際に出来事が起こった後で振り返って新聞を作っているからです。

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作中の時間は 1992年の4月から6月。その大半の時間、スタッフは1992年「2月18日」の新聞作りに費やしています。4月になってから2月のことを書いているわけですから、2月以降にあったできごとをまるで予測していたかのようにほのめかすことができるわけです。

どうせこのパイロット版は「うちのものが2月の段階でこういう新聞をつくってましてね…どうです?」とヴィメルカーテが強請りのために使うものだから、こういうことができるのです。話はここからもっとややこしくなります。

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ミラノの細い裏路地を好むブラッガドーチョがコロンナにうちあけるムッソリーニにまつわる陰謀は、1992年時点から1945年4月を振り返って、どの時点で誰がムッソリーニの素顔を、生死を知りえたかを鍵として、実は死んだのは影武者だったというストーリーを組み立てます。

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ブラッガドーチョの語りはどんどんと熱くなり、ありとあらゆるイタリアの戦後史がムッソリーニの死を隠蔽したことから派生していたという妄想につながります。作中の1992年から過去を振り返り、1964年の秘密組織の誕生、クーデターの挫折、数々の爆弾テロがすべてこの陰謀にからめとられてゆく流れは圧巻です。

おそらく、戦後イタリア史を知っていれば、より多くのことをここから読み取れるのでしょう。

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物語の結末については伏せますが、同じ構造は読者も加えた時系列でみることも可能です。そうすると「ヌメロ・ゼロ」はもっと複雑な姿であることがわかります。

作中の人間が1992年に知り得たことを土台として1945年以降の陰謀論が語られるのを、2015年にエーコが「ヌメロ・ゼロ」というテクストで発表し、それを20xx年の私たちが、もちろん1992年から20xx年までの知識を前提として読んでいるという構図が成り立ちます。

本書を読むだけで、読者は作中の構造に組み込まれてしまっている。無関係の傍観者ではいられない。こうした遊びをエーコは仕掛けているのです。

考え過ぎのように思えるかもしれませんが、あの「薔薇の名前」ですら、体裁上ボッカッチョの「デカメロン」をお手本として「アドソの手記をフランス語に翻訳した本のイタリア語への翻訳」という形をとっていますし、エーコ自身が物語のなかに別の意味として解釈できる物語を埋め込んだと書いています。今回は同様に、「時間」のなかに真実を隠したというのは大いにあり得ることなのです。

そういえばヌメロ・ゼロという題名は、アガサ・クリスティの「ゼロ時間へ」を彷彿とさせますよね。あれも、殺人の行われた時間にむかって叙述が遡行する物語でしたっけ。

嘘を隠すなら、事実の中に

小説内で書かれている事実は、たとえばコンメンダトール・ヴィメルカーテなる人物がいるかどうかも含めてあてになりません。

しかし小説の舞台が1992年であること。この年にイタリアで起こった大規模な汚職事件の摘発などといったできごとはすべて事実ですし、登場する人物や組織の名前も実在するものがほとんどです。この1992年の汚職事件捜査が引き金となって、のちの首相シルヴィオ・ベルルスコーニ氏が台頭するという背景もありましたねそういえば。

舞台となっているミラノの街は、たとえばブラッガドーチョが好きなミラノで一番細いバニェーラ通りから、ローマの遺構が片隅にある駐車場、運河のほとりの住宅地など、すべて実在しますし、Googleマップで確認することができます。

作中で要となっているBBCのテレビ特集 “Operation Gladio” でさえ、作中の内容そのままに実在しており、YouTube でみることが可能です。

本書が刊行された2015年時点で、エーコはすでに膵臓がんにおかされていました。もちろん、時間がそれほど残されてはいないことを意識しない彼ではなかったはずです。

すべての情報は時間のなかで意味をうしなってゆく。そうした諦観のようなものをこれまでの作品の中で繰り返し追ってきたエーコが最後に伝えたかったもの。しかし正面からそれを口にすれば嘘と見分けがつかないので、あえてテクストの中に隠したものが、この作品には埋め込まれているはずなのです。

それとも「隠されているはず」と思うこと事態が、すでに罠にはめられているということなのでしょうか?

まずは、本書を読まなければそれはみえてきません。それが、エーコの仕掛けた最後のいたずらだったとも言えるのです。

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2011年アルファブロガー・アワード受賞。ScanSnapアンバサダー。ブログLifehacking.jp管理人。著書に「ライフハック大全」「知的生活の設計」「リストの魔法」(KADOKAWA)など多数。理学博士。