もうすぐ、聴くことができなくなる小さな寝息

先日、わが家に二段ベッドがやってきました。

この家には眠ることができるスペースが、ベッドが一台なんとか入る小部屋と、そして和室との二箇所しかありません。

二人の子どもたちがまだ小さいうちは、大人一人がベッドに、もうひとりが子どもたちとともに添い寝をするので問題ありませんでしたが、八歳になった長女の身長がぐんぐんと伸びるにつれ、それはついに難しくなってしまいました。

物理的には、大人一人と、子供二人が並ぶだけの空間はあります。しかし子供は想像以上にダイナミックな寝相をしているもので、眠りながら90度横を向いて大人の腹となく、胸となく無意識の蹴りを入れてくるのです。

子どもたちとずっと添い寝をしていた妻はついに耐えきれなくなり、子どもたちの足元で、彼らの身体に対して90度横向きの方向で眠ることで、夜のあいだ続く攻撃から身を守るようになったほどです。

しかしそれでも、ついに長女の足が大人の眠っている位置にまで伸びてきた結果、夜明け頃の痛烈なキックによって、ついつい先延ばしにしていた計画は最優先事項に押し上げられたのでした。

子どもたちは子どもたちで。ベッドの導入です。

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このことで少しだけ惜しいのは(そして妻はまったく惜しくない!と喜んでいるのは)子どもたちの寝息を耳にする機会がずっと減るだろうということです。

私にとっては、子どもたちの存在を感じる一つの手応えといっていいものが、彼らがもっとも活動していない、眠っているときの寝息でした。

まだ長女が生まれたばかりの頃、座布団の上に寝かせて添い寝をしていたときに、ふと恐ろしくなったことがありました。あまりに息が小さすぎて、聞こえなかったためです。

「これ、本当に息をしているのだろうか?」そう不思議になって耳を口元まで近づけてようやく、かすかな、本当に小さな息を聞くことができるくらいです。それ以来、私の中では子どもの存在を特に意識するのが、寝静まったときに微かにきこえる寝息の存在でした。

二段ベッドが来るまでの二週間ほどは、妻に代わって私が子どもたちと眠り、夜半のかかと落としに、夜明けの横蹴りを甘んじて受けつつ、おそらくはこれから機会がしだいに減ってゆく安らかな時間を噛み締めていました。

私は惜しかったのです。

赤ん坊のころから確かめるようにして耳を傾けてきた寝息が遠くなり、子どもたちが子どもたちだけの歩みを始め、おそらくはそう遠くない未来に自立してゆくだろう未来へ駒を進めることに対して、少しだけ足を引きずって抵抗してみたい気持ちに駆られていたのです。

しかし、惜しいと思うことを手放すことでしか未来はやってこないということもまた、私がこの寝息から学んだことでもありました。

留めることはできないけれども、ただ惜しみ、記録して、次へと向かうこと。それもまた、生きるということの恩恵なのであると。

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そんな抽象的で内省的な父をよそに、子どもたちは新しい眠り場所に大はしゃぎですが、もうしばらくは、夜に様子を見に行き、落ちそうになっていないか確認する必要があります。

もうしばらくの間だけは。